ウルシスト®︎ と行く漆旅 ~近江編 その⑥ 木地師発祥の地 奥永源寺~

木地師発祥の地「奥永源寺」に伝わる、
山の民たちの物語。



千年ほど昔のはなし。

都に惟喬(これたか)親王という高貴な方がおられたが、藤原氏に疎まれて都を追われ、逃れ逃れて近江の東の山奥、小椋谷(おぐらたに)へとやってきた。





親王さまは、山の木を挽いて椀木地を作る轆轤(ろくろ)というものを考えられた。
それを山の民たちに授けると、貧しかったこの地には千軒もの轆轤工房が立ち並び、地名にちなんで筒井千軒(つついせんげん)と呼ばれてたいそう栄えたものだった。



やがて山の木が少なくなると、民たちは原木を求めてほかの山々へと渡っていった。

しかし、木地師発祥の地となった筒井八幡宮には惟喬親王さまが祀られて、全国の木地師たちが木地師の祖として信仰を寄せた。

***

これは、歴史の表舞台には現れない、木地師(木地屋)と呼ばれた山の民たちが伝承した物語。

史実を見ると、惟喬親王が轆轤を考案したと言うのはあくまでも伝説で、轆轤自体はもっと古い時代から使われている。
しかし、この伝承を信じて惟喬親王を心と生業の拠り所として信仰しながら生きた、遍歴の民たちがいたことは紛れもない史実。




江戸時代、民たちは筒井八幡宮の氏子となった。
八幡宮の神主は、全国を旅して木地師たちを訪ね歩き、氏子駆帳(うじこがけちょう)に名前を記していった。

民たちが氏子料を納めると、菊の御紋が入った札や朱雀天皇の御綸旨(りんじ)が渡された。



これらを持っていれば、どこの山でも七合目以上なら入って伐採し、仕事をすることができる。
移動が自由ではなかった時代、数十年ごとに移住しながら営む山の民たちの生業にはなくてはならないものだった。
そして、人里離れた山奥から山奥へと移動しながら逞しく生きる人々の、アイデンティティでもあったのだろう。

江戸の華やかな町民たちも、上方の豪商たちも、立派な御殿の殿様たちも、みんな木のお椀で温かい汁物をすする。

汁椀は日本の文化の要。

それを支えていたのは、元を辿ればこうした名もなき山の民たちの営みなのだということを、今は静かな鎮守の森が伝えている。



***

今回の漆旅~近江編~では、かつての木地師たちの残した足跡と地域文化を研究されている、筒井正(つついただし)先生にお話を伺いました。



「筒井」というお名前が示すとおり、自らこの地にルーツをお持ちです。

研究と興味の対象は地元にとどまらず、先人たちが残した全国の木地師文化を調査して、発信・継承活動に取り組まれています。筒井先生の、研究への比類なき情熱、行動力、幅広い知識が素晴らしく、奥永源寺地域のことはもちろんのこと、江戸時代の全国の木地師たちの暮らしや仕事ぶりなど、教科書には出てこない生き生きとした歴史を学ぶことが出来ました。


「木地師資料館」には、氏子駈帳やご綸旨、手形などの歴史資料、古いろくろ、作品などが展示されています。

また今回訪ねた「木地師資料館」があるのは東近江市奥永源寺地区の「蛭谷(ひるたに)」という場所ですが、隣接する集落「君が畑(きみがはた)」にも、同様の伝承があります。江戸時代には「蛭谷」「君が畑」の両方が全国の木地師の仕事を支える拠点となりました。



現在、東近江市では、これらの木地師文化を保存・継承する取り組みが、さまざま行われています。

木地師のふるさと 東近江市



つづいて翌日は、同じ小椋谷にある、室町時代から続く茶畑「政所茶(まんどころちゃ)」を訪ねます。
このお茶もまた、木地師と縁があることを、筒井先生に教えていただきました。

つづく。


旅の記録:2025年11月「ウルシスト®と行く漆旅~近江編」