ウルシスト®と行く漆旅 ~合鹿椀を訪ねて~
合鹿椀
輪島塗で知られる奥能登の輪島は海に面する港町。その街中から山道を車で30分ほど走ったところに、能登町(旧柳田村)の「合鹿(ごうろく)」という地区があります。
「合鹿椀(ごうろくわん)」をご存じでしょうか。
この地で昭和期に見つかった、江戸時代以前から庶民が使っていたであろう質素で粗野なお椀です。見つかった地名にちなんで「合鹿椀」と呼ばれるようになりました。現存している合鹿椀は江戸時代のものですが、その後の研究で、おそらく室町時代には造られていただろうと考えられています。
このお椀の特徴は、高台(お椀の脚部分)がとても高く、大ぶりであること。かつて、大名たちはもちろんのこと、江戸市中や豪商たちの食事はお膳の上でしたが、山に住む庶民や農民の多くは、囲炉裏端で食べていたことでしょう。お椀の高台が高いことで床においても持ち上げやすく、囲炉裏の鍋から掬った汁物1杯で終わる食事には、ちょっと大振りのものが合っていたのでしょう。
このお椀を大切に今に引き継いでいるのが、合鹿の山のなかにたたずむ立派な古刹「福正寺」さんです。
このたび、福正寺さんと懇意にされている彦十蒔絵さんにご縁をいただき、合鹿の地を訪ねました。
お椀の里を訪ねたら、鉄の歴史に出会いました
お寺の門前についてまず目に飛び込んできたのはバス停の名前。
「多々羅」…ん??たたら??
お寺の場所の地名でした。
そう、「たたら製鉄」の 「たたら」 です。
ジブリ映画「もののけ姫」に出てくるタタラバの「たたら」。
木材資源が豊かな合鹿には、かつて多くの木地師たちが住んでいました。一方で「佐渡の金山、能登の砂鉄」と言われるほど砂鉄も採れ、鉄も作られていたのです。
福正寺の坊守さんが見せてくださったのは 「金屎(かなくそ)」。
ちょっと面白い言葉ですが、これは鉄を精製するとで出てくるクズのこと。この地で製鉄が行われていた証なのです。
木を切るにも削るにも鉄の刃物が必要。現代でも木地師さんたちは自分で刃物を調整するので鍛冶仕事ができなくてはなりません。
木が豊富で砂鉄も採れるこの地でたたらが行われ、木地師が誕生したのは必然だったと思います。
「福正寺」は、室町時代の1494年に、地元の職人や商人の請願で建てられたと伝わっています。つまり、当時、この地に鉄を作り、刃物を作り、椀木地を作って売っていた職人たちがいたということです。
福正寺さんでは、合鹿椀のほかにも、江戸時代に実際にお寺の講で使われていた古い漆器や中世の珠洲焼などを見学することができます(要予約)。
また、本堂の天井絵は圧巻です。
描かれているのがすべて能登の里山に咲く花々ということに心打たれました。
中世の能登に生きた人々の逞しい暮らしが目の前に現れたようで、歴史好きとしてはちょっと興奮のひとときでした。
同行メンバーと福正寺の皆様と記念撮影
彦十蒔絵
写真の赤いお椀は、福正寺さんに納められた「彦十蒔絵」若宮隆志さんの作品、「多々羅椀」。
深い本朱色の下には黒漆が塗ってあります。この黒い漆には玉鋼の鉄粉が使われています。上塗りの本朱に隠されてしまう黒色に作品の髄を込めるところに若宮さんらしさを感じます。
「能登」を物語るこのお椀に注がれた熱量が伝わってくるようでした。
彦十蒔絵さんの作品は、どれも、いつも、驚きと遊び心に溢れています。
生きることの喜びや切なさの物語が、静かなる熱気を湛えつつ秘められているのです。
表現者たちの究極まで拘り抜いた技巧も、表現されるこの世あの世の森羅万象も、全てが尊い。
漆のもうひとつのかたちがそこにあります。
彦十蒔絵 アトリエ にて(輪島市内)